【日常捜査ファイルNo.144】押した階のボタンを降りるまで何度も確認する事件
【日常捜査ファイルNo.144】押した階のボタンを降りるまで何度も確認する事件
- 事案名称: 階層記憶・疑心暗鬼現象、通称「フロア・パラノイア(昇降機の幻覚)」
- 警戒レベル: ★★★★☆(「もし押せていなかったら、目的階を無情にもスルーされる」という見えない恐怖と、他人に怪しまれないようにパネルをチラ見し続ける首の疲労による致死量の精神的消耗)
- 捜査難易度: ★★★★★(満員のエレベーター内では、ボタンパネルの前に立つ「パネルマスター」の背中越しにランプの点灯を確認しなければならないという、極めて高度なステルス視力が要求されるため)
- 被害対象: 自分の指先の感覚と記憶力を全く信用できず、鉄の箱の中で「俺は本当にあのボタンを押したのか?」と自問自答を繰り返すすべての哀れな現代人たち
- 目撃情報: ドアの上にある現在階のデジタル表示を見上げるふりをしながら、視線を不自然に斜め下へと滑らせ、自分が押したはずのボタンのランプが光っているかを数秒おきに確認している姿
現場証言:被害者たちの叫び
「乗った瞬間に『8階』を押した確かな記憶があるんです。でも、途中で乗ってきた人たちが次々と別の階を押すうちに、私の『8階』が上書きされて消えてしまったのではないかという錯覚に陥り、結局降りるまでに4回もボタンのランプを確認しました。」
(会社員)
「一番乗りでエレベーターに乗り込み、自分の階を押して奥に詰めました。しかし後から大勢乗ってきて、ボタンパネルが完全に人垣で隠れてしまったんです。私は目的の階に着くまで、『もしランプが点いていなかったらどうやって声をかけよう』と冷や汗を流し続けていました。」
(営業職)
「点灯するボタンの光は、あの密室において我々がそこへ向かう正当な権利を示す『唯一のパスポート』なのだよ。光を失えば、我々はただ他人の階に便乗しているだけの密航者に成り下がるのだ。」
(ベテラン被害者)
導入:事件発生のファイル
「フゥ……。人間という生き物は、どれほど確固たる意志を持って行動を起こそうとも、わずか数秒後には己の記憶すら信用できなくなる哀れな存在のようだな。」
日常捜査課のデスクで、私は深くため息をつきながら淹れたての深煎りブラジル産コーヒー(※給湯室にあったインスタント)をすすった。
今回の事件は、我々が近代建築の産物である「エレベーター」という密室空間に足を踏み入れた際、突如として発生する極めて残酷な記憶喪失ミステリーである。
あなたは高層ビルに入り、エレベーターの箱に乗り込む。行き先は12階。
「フッ……迷いはない。俺の目的は常に明確だ。」
あなたは迷わず「12」のボタンを人差し指で押し、ランプがオレンジ色に点灯したのを確認する。そして、クールに壁際に寄りかかり、腕を組む。
しかし、箱が上昇を始め、「4」「5」「6」と階数表示が変わっていくにつれて、あなたの脳内に一滴の黒いインクのような「疑念」がポツリと落ちる。
(……待てよ。俺、さっき本当に『12』を押したか?)
確かに指先にプラスチックの感触はあった。しかし、それは「閉」ボタンだったのではないか? あるいは、隣の「11」を押してしまったのではないか?
あなたはさりげなく、あくまで「外の景色を見ている」かのような自然な動作で首を動かし、視線だけをボタンパネルへと投げる。
なぜ我々は、たった数十秒前に自ら完遂したはずのミッション(ボタンを押す)の成果を、これほどまでに疑ってしまうのか。この「昇降機内・強制パラノイアバグ」の真相を、私が暴き出してみせよう。
展開:容疑者一覧(昇降機の幻覚の黒幕たち)
「うーむ……これは実に興味深い。これほどまでに完璧なタイミングで、俺のハードボイルドな決断力を、ただの『疑心暗鬼に怯える小鹿』へと引きずり下ろしてくるとは。」
私は張り込み用のお気に入りあんぱんをかじりながら、思考の海へと深く潜っていった。当日常捜査課がリストアップした、3つの恐るべき容疑者をここに記す。
- 第一の容疑者:脳の「ルーティン・オートデリート(日常行動の即時消去)」(現実度:高)「エレベーターのボタンを押す」という行為があまりにも日常的で刺激のない作業であるため、脳が「保存する価値なし」と判断し、実行した直後にキャッシュ(短期記憶)から即座に削除してしまうシステム上のバグ。
- 第二の容疑者:インターフェースの「サイレント・フラッシュ(手応えなき光)」(現実度:中)最近のスタイリッシュなタッチ式ボタンが、「カチッ」という確かな物理的フィードバック(押し心地)を奪ってしまったため、記憶への定着率を著しく低下させている現代インフラの罠。
- 第三の容疑者:昇降機の魔物「ボタン・ガスライター(記憶を揺さぶる者)」(現実度:低・妄想)箱の中に潜む魔物が、乗客がボタンから目を離した瞬間にランプの光をほんの少しだけ暗くし、「あれ? 押せてないかも?」と不安にさせることで、人間の狼狽える姿を見て嘲笑っているオカルト現象だ。
オチ:華麗なる迷宮入り
「事態の真相は、俺がある高層オフィスビルでの重要な聞き込み調査へ向かうため、混み合う朝のエレベーターに乗り込んだまさにその時、無慈悲に牙を剥いて現れるようだな……。」
その日、私はターゲットのいる15階を目指し、1階のロビーからエレベーターに乗り込んだ。
(フッ……プロの探偵たるもの、常に最短ルートで標的に迫る。15階だ。)
私は一番乗りで「15」のボタンを押し、そのまま奥のポジションへと陣取った。直後、出勤ラッシュの会社員たちが次々と乗り込んできて、エレベーター内はあっという間に満員状態となった。
ドアが閉まり、上昇が始まる。
手前に立つ人々が、それぞれ自分の目的階を押していく。
その時、私の脳裏にあの恐ろしい疑念がよぎった。
(……俺、さっき『15』のボタン、しっかり押し込んだか? 指先が触れただけで、実はランプが点いていなかったのではないか?)
もし押せていなかったら、この箱は無情にも15階をスルーし、最上階まで連れて行かれた挙句、そのまま1階へと降下する最悪のデス・ドライブ(往復)を強いられる。
私は確認しようとしたが、ボタンパネルの前には、大柄なサラリーマンが不動の山のように立ちはだかっていた。彼の分厚い肩越しにパネルを覗き込むのは、至難の業だ。
(くそっ……見えない! 『15』のランプは生きているのか!?)
私は天井の監視カメラを気にするふりをして伸び上がり、あるいは落とし物を探すふりをして膝を曲げ、大柄な男の脇の下の僅かな隙間からパネルを凝視した。
「7階」「9階」「12階」……。次々と人が降りていき、ついに箱の中は私と数人だけになった。
視界が開け、パネルがはっきりと見えた。
……『15』のランプは、全く光っていなかった。
どうやら、一番乗りで乗った際に、コートの袖がキャンセル機能(二度押し)に触れて消してしまっていたらしい。
(な、なんだと……!? 俺の『15』が死んでいる!)
現在地は「14階」。
「あ、すみません!」
私はハードボイルドの欠片もない裏返った声を上げ、パネルの前に飛び出して狂ったように「15」のボタンを連打した。滑り込みセーフでランプが点灯し、箱は静かに15階で停止した。
アジトへ帰還し、冷や汗を拭いながらソファーに倒れ込む私を待っていたのは、「いい歳した探偵が、エレベーターの中で屈伸運動しながら脇の下を覗き込んでるなんて、完全に不審者だニャ。そんなに不安なら、最初からボタンの前に張り付いて『開・閉』のオペレーターでもやってろ」とでも言いたげな、我が家の白黒の愛しき同居人(猫)の果てしなく冷ややかな視線だった。
「フゥ……完全なる敗北だ。」
短期記憶の即時消去か、魔物のガスライティングか。今回もまた、一度の決断(プッシュ)を最後まで信じ抜く、有能な探偵であることを証明することはできなかった。探偵帽を深くかぶり直し、私は「エレベーターのボタンを押した後は、ランプが点灯した状態をスマホのカメラで撮影して証拠を残すくらいの執念を持たねば、安心は得られない」という血の滲むような真理を噛み締めた。謎がそこにある限り、日常捜査課の戦いは終わらない。






この記事へのコメントはありません。